今回は論理性の限界について解説をしたいと思いますえ巷にはえロジカルシンキング論理的であることがま知性の現れであり社会に出ればこうした論理性が高いことをま能力の一部としてえま自分自身の
アピールとしてえそしてえ会議の中では論理性が高い故にえ会議え議論に対してえ優位に立てるなので論理性は必須でありえ論理性が高い人が仕事ができる価値を出せるといったような論理性ロジカル
シンキングに対してえま高すぎると言われるほどの評価を下している時代がありましたま昨今はそれらも少し緩まてはきているかなとは思いますがそれでも相変わらず私たちはこのえ論理性がま万能であるか
のようにえ感じてしまう瞬間というのが少なくありませんで今回はその論理性にはある種の限界がありそしてそもそも論理性と言われるようなこの私たちが考えているこの思考プロセス
ロジカルシンキング自体がある種の錯覚現象を起こすだけそのために論理性というものがあるこういったことについて解説をしてみたいと思いますプロ野球選手教育者エンジニアスタートアップ企業家
コンサルタントそしてエグゼクティブコーチとして他方面に渡る経験を持つ私がこのポッドキャストで皆さんにお届けするのは人生の様々な局面で直面する挑戦に対処し自己実現を果たすための具体的な
アドバイスや[音楽]インサイトログインをしたいと思いますえ論理性ロジカルシンキング大学生えや新社会人にえなった
際にま論理性が足りないとか論理的であれという風に迫られたことはあるかと思いますそして学校教育の中でも数学や物理こうした高い論理性が求められる領域で論理性が高い方が有利にえ点数が取れる
成績が高くなるそして社会に出てからもロジカルシンキングを反映したようなテストま入社試験とか入学試験えこういったものでえテストされるということがあると思いますそしてえそれによってですね
高い論理性を持っていることをなりわいとしている職業というのも多くありますホワイトカラーの大半はまそうした仕事であり例えばあコンサルタントとかあるいは法律家あこういった仕事はあ高い論理性が
ゆえにえまその能力を評価されえそれによってま対価報酬を得ているといったようなメカニズムになってますがこの論理性に関してえじゃ一体この論理性というものは一体何なのかということについてまず前提
となるものを確認してみたいと思いますえ論理性えある物事や概念というものをまストラクチャーま構造化していくということでえ概念というものをま小さく切り刻んだりえそれらを組み合わせてえ
最終的な全体像というものを描写したりえしていくようなプロセスこれらをま論理性とその組み立て方や繋がりというものをま可視化していきながらそしてえそれによって完全なものというものを目指していくと
えここのまあのテクニックとしましてはまディシジョン3とかミシとかといった形で概念というものをどんどん小さくしていったり逆に大きくしていってえま抽象化してったりといったようなプロセスを抽象的な
ものから具体的なものそしてえ概念的なものから具体的なものこういったものをこう生きしていく自由に操作できる能力これがま論理性であるとなので論理的であるえ論理性の高い人というのはまこう
いった構造を作るのが得意でそしてそれらの中小度というものを自由に操作できると具体的なものから抽象的なものにえどんどんこう概念を広げていったり逆にその概念化された抽象的なものから具体的
なものにどんどん落とし込んだりということがあま自由にできると例えば犬というものを概念として捉えた時にそれを具体的にしていくとおま大型犬小型犬中型犬やあ室内犬えこういった犬に対してまより具体
的なものにしていくでその中にえチワワとかあトイプードルとかといったさらにそれらを具体的にしていくプロセスでえま犬というものであってもそれらの繋がりですね構造というものをま概念として概念の中で
操作していくとでそれら今度はじゃあ犬というものをもっと抽象化していこうとなるとま4速歩行の動物あるいはあさらに上にえ抽象化していくと哺乳類とかですねえでさらにえ抽象化していくと陸上生物とか
ですねという風にこうどんどんと概念化していきながらま他の概念も包括していくようなより大きな概念というものを生み出していくとそうしていけばあどのレイヤーで話をするしているのかとかどの
レイヤーでて捉えるとこの物事が説明可能なのかといったことを探っていくわけですねでここに前提となるものが必要になります要はこの構造化する時にはある種のノイズを排除するノイズを無視するという
ことをやらなければこの完全な構造はできないわけですえ私たちの住んでいるこの世界えリアルな世界というのはあ私たちののこの思考や日知に都合のいいようにできているわけではなくその逆ですね私たちは
このリアルな世界ノイズまみれのこの世界に対してえどれがノイズでどれがノイズでないのかというのを私たちの認知をベースに私たちにとって役に立つのかどうかという観点から勝手に解釈しているだけです
なので私たちの認知やこの世界を理解する認識が先にあるのではなくてこの現実の世界の方が先にあり私たちは後からそれらを眺めてえパターンを勝手に見い出して勝手に解釈しているにすぎないわけですね
なのでえこの論理性がスタートするためにはある種の決めつけが必要でえこれはノイズだこれはノイズでないという風にえ1番初めにスタート時点ででえ切り捨てなければならない領域が出てきますなので
えこの論理性だけで完全な完全体全体を描こうとしたりあるいは具体的にどんどん落とし込まとしていった際にはノイズだと思われるもの要は例外的なものは一旦置いといてえ排除して無視してそしてえ構造を
完全にえ構造体として作ることを優先してどんどん組み立てていくわけですなのでえその決めつけとなる前提に関しては議論の余地はないという風にして切り捨てるわけですねえなのでえこの論理性のスタート
前提となるものというのは実際には現実を反映しているというよりはある種の決めつけそしてこれはあその決めつけを合意するみんなが合意をしていればあその決めつけは十分作用するのでえその全く
根拠のないえ単なる決めつけでえスタートをしたとしてもそこに誰も疑問を持たなければその論理性というものにえ参加している人論理性にえ合意する人があそれらの構造や論理ロジックを信じることが
できるわけですで私たちはえこのリアルの世界に対して勝手にパターンを見つけてそして何がノイズで何がノイズでないかというものもそのパターンを認識した上で勝手に決めつけていくわけですねえなので
私たちがこの論理性だと思っているものというのはある種のこの世界の解釈のパターンを見い出した結果であってえ勝手にえ根拠を捏造しそしてえそこに何らかの認識私たちがこの世界を理解する上に値
するような構造みたいなものをパターンとして勝手に見出しているだけにすぎませんでその前提となるようなものとかあこの構造を作った時というのはまより分かりやすく私たちはそれらが導き出した論理性
に対して合意しやすいためにもより私たちにとって理解しやすく判断がしやすいものというものを求めがちになりますえそれのまあの典型的な例があ二項対立ですねえ善と悪いい悪い男と女こういったえ二項対立
をどんどん生み出していくわけですでえそうした中でも私たちのこの二項対立がどっちが優れているどっちが劣っているといったような意味も含んでいたりそしてえこの二項対立に含まれないものはその時点
でえノイズとしてえ無視しているわけです例外だという風に無視しているわけですねしかし実はこの二項対立が正しく本当に機能しようと思った場合にはこの二項対立に含まれないものも実はちゃんと定義し
ないとこの二項対立そのものがうまく機能しないということが起こるうそれを多くの場合は無視していたりしますこれどういうことかと言いますとえノイズだと思って無視したものが実は後になって必要なもの
だったということに気付かされるということがよくありますで先ほどの1つの例だとえ男と女という風に二項対立を作った場合に男と女と言っているけれどここでいう男と女のこの間男と女の間には何か
あるのかと何を持ってして男と呼んで何を持ってして女と呼ぶのかとなった場場合にこれは生物学的な男を指すとなった場合にじゃあそれは何を持って判断すればいいのかと染色体で判断しましょうとなった場合
にえその染色体にも実は私たちは2つに完全に分けることができない人たちというのがいますするとその人たちはどっちに入れるんだとなるわけですねでもそれはノイズなのでえこの場合え男にも女にも属
しませんという風に切り捨ててしまうのかその人たちもちゃんと包括できるような概念というものを生み出すのかという風な議論が出てくるわけですねするとその人たちを入れるにはその人たちはノイだと
いう風に判断されていたけれどもその人たちもえ含めて定義しないといけないとなった場合にその人たちはノイズではなかったということになるわけですすると生物学的なその染色体によって男か女かと
いう判断をするこの判断の仕方が実はまずかったということで修正をする必要があるわけですねそうなるとこの二項対立で男と女を区別することの効果というのはほとんどの人多くの人にとってみれば男と
女という分類で十分役に立つのでえその分類でえ世界があ前提として動いているという風に捉えてしまってもほとんどの場合はうまく機能するとしかしこの世界を本当にリアリティのある具体的なものとして
捉えようと思った場合にこの2つの分類ではあうまく機能しない領域が出てくるとそういったことが起こった時に修正をしていきましょう一旦決めてしまったものでノイズとして切り捨てたものを後から修正
していきましょうと訂正しましょうといった形でえ進まざるを得ないとなのであくまでも二項対立として分類したものは一旦その時にはこれで役に立つのでこのレベルの竜土で行きましょうという風に仮
の合意をしたにしか過ぎず後になって訂正していく修正していくということが必要になるということは大金にして起こりますなぜならこの二項対立はこの世界を正しく反映したものではなくてえ人々が強引に
至って人々が何らかの意思決定をする際に一旦借りて決めないと意思決定ができないのでなので意思決定して私たちが前に進むためには仮でえそのようにしてしまいましょうという風にしてで多くの人がそれ
でも十分役に立つえ判断をしやすくなるのでえそれで行きましょうと仮で決めたにしか過ぎないですねなのでいくらでも後から訂正は必要になりますしそして訂正した後にもまた合意をしていく必要があり
ますえこの場合にはその新しく出てきた概念例えば男と女の間の人たちはどうするのかということに対して多くの人がいやそれも問題だなとその人たちを包括していない社会というのはあ機能として役に立た
ないシーンが出てくるなとなのでそれらを修正してちゃんと役に立つ概念としてえ性別これが男と女以外の人たちも含まれるような性別の区分というものを作りましょうという風に社会が多くの人が
考え出したそのそこに問題意識を持った時点でえじゃあ修正しましょうとなるという形でえ常に修正の可能性は残されるわけですなので私たちが論理性に対して絶大なる信頼を置いているしてもそれは
いつでも修正が必要になる訂正が必要になる可能性を常に持っているわけですなので私たちはあくまでもこの論理性というものは仮の合意一旦ここで合意して先に進みましょう意思決定しましょうと言った
もののためだけに生み出される幻想であってそれは私たちが合意に至れるだけの十分なストーリー現実っぽく見えるストーリーであればいいというえ十分なえ説明可能であるストーリーがあればいい合意ができれ
ばいいという程度のものなんですねなので現実を本当に正しくありのまでえ記載できて分類できているわけではなくて私たちの認識上そのようであって欲しいそのようであれば納得ができるというためのものだけ
なんですねなので論理性というものはこの世界にあるわけではなくて私たちの心の中にあるだけなんですねなのでそういう意味では私たちは常にこの世界を解釈する時にある種の錯覚を常に起こしていてそして
私たちはこの錯覚の中でしか認識ができないという限界がありますですのでこの論理性というのは実は極端な言い方をすれば錯覚なんですえ錯覚を私たちが納得のできる錯覚にえするで私たちがそれが錯覚
だと気づかないリアルであると思わせるためのものこれが論理性でありえそして論理性を持つこと論理性に絶大なる信頼を置いてしまうことは錯覚を錯覚だと認識できなくなってしまうという危険性があり
ます私たちの能力や私たちの認知というものはそもそも現実を正しく捉えられないとノイズをノイズであるという風に捨ててしまう恐れえ本当はそのノイズが実は後から意味があるものだったという風に
気づく可能性があるものをばっさり打ち捨ててしまって後からそのノイズが実は意味があるんですよという風に訂正を迫られた時にアップアップしてしまって元々そのように切り捨てたんだからという
ことでえそれを前提にえ組み立てたシステムこれを温存させるためにえノイズが後からノイズではなかったと気がついたとしてもそれを認めず訂正もせず修正もせず古いシステムだけを温存させることに
こだわってしまってそこに取りた人たちは現実の世界を見るのではなくて1度決めてしまった自分たちの中での現実であるだろうと思うような錯覚から前提に作られたストーリーこれらに補習してしまってえ
現実を見ないということが起こるわけですでこれの最も危険な使い方というのはま宗教をそのようにして解釈してしまった場合にえこれらが衝突をしたり世界の解釈の食い違いによってえある種の間違った
行動を集団で取ってしまうということが起こるわけですねでこれはあの別ののところでまルール違反をすることが実は民主主義にとってみてえ民主正しい民主主義にえ導くための方法だというような
エピソードで語りましたが例えば民主主義の反対って何ですかと民主主義をもし二項対立で捉えるとしたら民主主義に対しては社会主義ですね人々がそれぞれ意思決定をするのではなくてえ社会としてえ1つの
大きい意決定をドンとトップダウンでえ決めてしまってそしてそれらに人々が従うべきとえそしてえ人々の間には格差がないということでえ等しく同じえリターンえを得る分配していきましょうとやるこの考え
方が共産主義で人々は自由に自分たちの資産を資産や資本を持つ形でえ利益を得た人があその利益をどんどん得ていくで自己増殖していくという仕組みを認めるのが資本主義でこういう風にし対立構造を書け
ばあこの組み合わせとしてはあま資本主義は自己暴走してしまいますのでえそれらを食い止める仕組みとしてえ民主主義を組み合わせるとなのでえ資本主義国家には民主主義体制が必要であるとでないと
バランスが取れず自己崩壊してしまいますので大抵の国は資本主義と民主主義がセットであるとそれに対してえ共産主義を実現しようと思った場合は人々がその分配え平等な分配というものにえ不満を持たず
にその平等な分配を実現する仕組みが必要になりますのでえそうなると社会主義とセットになるわけですねえという形でえ世の中の多くの仕組みはあ共産主義と社会主義ってのはセットえそして資本主義と
民主主義はセットといったこの二項対率が分類として出てきますがあ私があ別のエピソードで言ったあ問いかけというのは例えば民主主義について民主主義が正しく民主主義として機能し続けるためにはあ
アナーキズムが必要であるとえ従わないということですね権力に対して従わないというスタンスがある程度は必要であるとこれはいわゆる民主主義にとってみればノイズですアナーキズムという概念は民主
主義にとってみれば排除したいノイズなわけですえしかし民主主義が正しく機能するためにアナーキズムが必要というのは民主主義にとって見ればノイズだと思っていたものが実はノイズなのではなく民主
主義というものを正しく民主主義として機能させ続けるために必要なパートだったという風にえ考えることができれば実は民主主義とアナーキズムというのは対立構造ではなく民主主義を保管する考えとも
取れるわけですとなると分類上じゃアナーキズムの二項対立は何かと言うと社会主義だろうが民主主義だろうが権威主義権力というものが必ずそこにあるこれはイコール国家ですね国家というものが
存在しなければならないということが前提になっているのでえ国家主義対非国家主義という考え方があ二項対立で導き出せるわけですねすると民主主義だろうが社会主義だろうがどちらも国家を前提にして
いるのであなたたちは考え方として同じ考え方ですよという風に問い直すことができるわけですなのでアナーキズムから見れば民主主義だろうが社会主義だろうがそれらは国家を前提にしているのでどかに
従属することを前提としてますよねと権力がそこに集中していて権力があることが前提になってますよねなのでもうその時点で民主主義と社会主義というのは対立構造ではなくて実は同じ考え方なんですよと
いう風にアナーキズムから見れば捉えられることができるわけですなのでノイズだと思っていたものが実はそれらの考え方を補強する保管するものになりうるわけですなのでえこの二項対立と思っていた
ものが実は対立ではなくて共通の前提に対してその中でえさが生まれているといったような捉え方をすればその共通してることは何なのかとえ見え方をするにはその外側から眺めるとかあそれらは対立では
なくてえもっと大きい枠組で見れば共通しているものなんですよという風な見え方もできるわけですねとなると決めつけた前提というものも疑われる可能性があり疑う余地があるそしてえこの現実の世界から
見ればあそうした切り捨てたノイズに意味がある可能性は分にありそれは私たちの認知能力の限界でもあるとなので私たちはこの世界をどこまで行っても完璧に知り尽くすということは不可能であるという
ことがあこの論理性の危険ですね論理性は完璧ではないさしてそして万能でもないえさらに論理性はあくまでも私たちが世界を理解する上での錯覚これを錯覚ではないと信じ込ませてくれる程度のものなんですね
なのである種のこの論理性をを究極まで極めていくという行為というのはま暴力的でもあります世界はこうであるという風にえどんどん決めつけていかないといけないのでえそういう意味では論理性というのは
私たちが合意に至るために便利であるからという役に立つからという程度のものであるという風にえ私たちは謙虚になる必要がありそしてこの論理性やあまロジカルであるというようなことを過度に求めすぎ
たり過度に評価し続けることは危険ですしかし私たちは合意に至るということは日々いろんなところで行ってますルールに従う必要があったり人と何か協力をしないといいけないという場合がありますので
ある一定の論理性は必要です論理的である論理性があることによって私たちは協力できるわけですねえ多くの人々が何かルールを守ってえ行動を起こすということが可能になりますでこの場合目の前にいる
1人2人ではなくてえ1万人あるいは1億人これほどの大人数が何かの行動に対して合意を取って動き出す協力し合うということが可能になりますがそれはあ猛進的にえそれらの論理性が全てなのではなくて
これはあくまで仮の合意一旦このようにして決めて意思決定しましょうという程度のものでしかないなのでこの論理性には限界があり切り捨てたノイズがありそしてノイズが後から必要だったということに
気づかされることもあるという謙虚さが必要になりますなのでそれをうまく表現しているうまく取り入れている分野というのは科学ですね科学は一旦仮で正しいだろうと合意をしたとしかしいつでも後から修正
される可能性はあり訂正される可能性がありそして訂正された場合にはまたそれを元にして合意をしましょうとなので合意に足るかどうかという判断を常にする必要がありそして常にそれはただの合意であって
本当の世界の描写本当の世界を記述したものではないという風にえ謙虚になっておく必要があるということになりますなのでそこの論理性を疑うことを禁止されてる考え方というのはこれ科学ではなく宗教に
なってしまうわけですねその前提となるものをそもそも疑ってはならないという風にに迫られてしまう場合はあ宗教になってしまうわけですね前提を疑ってもいいのが科学でありそしていつでも修正訂正が
できるのが科学ですなので私たちは科学的であるというのはある種現実のリアリティのある世界に対して私たちの認知が限界があるというその限界の部分をちゃんと認めて私たちの能力に対して謙虚であり続け
られるかどうかこれが科学的であるというスタンスになりますなので科学的であればあるほど私たちはより謙虚になりそして常にノイズの可能性を排除せずそれらは一旦え仮で決めただけであってノイズも
切り捨てるわけではなくて一旦脇に置いといて保留しておきましょうというスタンスですねなので科学は常に仮の状態になるわけですなのでこの仮の状態がまた後から実は意味があったという風に
見つかることがよくありますがあそれらを元にしてえ前提として前一旦進みましょうとやっていくスタンスがあ私たちのこの世界というものをま正しくと言いますかより事実に近いものに今見せてくれると
いうわけですねまそれでもどこまで行ってもその真実というものに私たちは近づくことができずかその間には絶対に渡れない深い谷みたいなものがあるわけですなので私たちは近づけば近づくほどその谷が必ず
存在してえその谷と現実の間はどんどん狭まっているかのように見えるんですけれどもその狭まっていく他人に近づけば近づくほど私たちはどんどん縮小して小さくなっていきますのでその私たちから
すればあ谷は近づけば近づくほど遠ざかっていくようにも見えているわけですねえそういった意味ではこの辺はちょっと哲学的ですけれども論理性を極めれば極めるほど実は論理性というものは役に立たない
ということにえ気がついていくと思いますなのでえ論理性が全てだと思っている人はまだ実は論理性が足りないというま逆説的な言い方ですけれどもそういった意味では私たちはこの論理性というものにに猛進せ
ずえそしてあくまでも合意に得るためのストーリーを描く同義しか過ぎないという風にえ捉えてもらえればいいんじゃないかなと思いますでこれらを成合とするコンサルタントとか法律家はそこに気づい
ている人もいれば気づいていない人もいますなので論理的なプレゼンテーション論理的な資料を作れば論理的であればあるほどこれはクライアントのためになるそして自分の能力をえ能力が高いことをあ
表現したものであるとなので高い論理性を持ってしてえ自分たちの仕事というものを評価してもらおうとしすぎるがあまりえ資料の中ではあストーリーがちゃんとできているかのように見えるしかし実際それを
実行してみたら何の役にも立たないとその通りの結果にならないとというようなことが本当によくあります資料上は分析された結果を元にすればこういうアウトプットが出るはずですという風に書かれていたとし
ても実際にそれを実行してみたら全然それととようのような結果にならないとでそれを説明するのにいや現実に関してはそのノイズがあるのでえそのノイズが含まれてる状態だと役に立ちませんとこれはあの
の物理の問題とかでも時速60mで前へ進んだ人があじゃあ2時間後にどこまで進んでるでしょう何cm進んだでしょうといったような問題に格好書きでえただし空気抵抗は0だという風にえ前提とする
こと空気抵抗はないものと見なすことといったような格好書きがついてるわけですねなのでえその問題では空気抵抗がないものとすると現実の世界で空気抵抗はないなんてことありえないですけれどもそうし
たありえないえ前提というものをまノイズだと見なすと空気抵抗はノイズですという風に切り捨ててえ問題を構成してその問題に答えるわけですけれども前提となっている空気抵抗を0これは現実だとありえ
ないですし空気抵抗0で計算をしたところでそのアウトプット答えは近事値でしかなく現実を正しく反映したものでもないということになりますしかしそのノイズを打ち消した方がノイズを切り捨てた方が
計算上都合がいいというのと禁値でいいとある程度近いもので使い物になればいいとそのアウトプットのの結果が意思決定するのに十分意味があるものであればいいという風にある種諦めているわけですねそれ
を一般的には解像度と言ってえ解像度をま荒くせればするほど現実から配りしていくわけですけれどもそれでも意思決定をして十分役に立つ改造度のレベルで思考をやめてしまってもいいという暗黙のルールが
ありますまそれがなければ私たちの認知力の限界がいずれ来ますので合意するにはあまりにも複雑すぎる前提複雑すぎるストーリーになってしまってそもそも意思決定ができないとこのロジックを受け取っ
た側がちゃんと把握的できない理解できるえ認知力を超えてしまうようなものが渡された場合はそもそも理解ができなければ意思決定できませんのでその意味ではどこかの改造度で切り捨てる必要があるわけ
ですねでそして私たちが歴史を学ぶ時や歴史を分析する時も同様のことが起こるわけですね歴史家たちは手元に手に入る資料やあとその資料を読み込んだ結果としてこうじゃないかという解釈によって歴史
を紡いでいくわけですけれどもこの歴史に関してもその場に言わした当事者じゃないので何が起こったかというのを完璧なまでにえ把握することは不可能ですねで当事者であったとしても自分が見た世界自分が見
た領域でしか分からないのでそれ以外のところで起こったことに関してはあやはり何らかの資料や後から誰かに確認したりする必要がありますので歴史自体は実はありのままに描くということは不可能な
わけですねなので歴史家がこうだろうという解釈やあるいは資料の読み込みでここにはあ資料の誤読も含まれますがあ間違って読もがその読んだ結果として出てきた解釈これらによってえ歴史というものを
紡いでいくわけですでその中には意味がないだろうこれは何の本質的な文脈の部分に関係ないだろうと思ったようなノイズだと判断したものは当然そこでは排除して不要なものとして切り捨ててえそして本質
的なところ本文に関係ありそうなところだけを取り出して歴史というものを紡いでいくということを歴史家は行うわけですねとなると歴史もありののこと書いたわけではなくて多くの人が納得でき合意できる
ものが紡がれていってるだけということになりますなので私たち人間は見たいものを見てそしてストーリーも聞きたいものを聞きそして紡いでいくストーリーも自分にとってえ納得ができるもの自分にとってま
都合のいいストーリーですねえこれらを信じますなので論理性の限界というのは客観的に世界がこうですよではなくて私たちがこうであったらいいなと思うストーリーに影響を受けるわけですねなの
で人々が合意するためのテクニック合意するための方策というものがあ論理性であって私たちが錯覚を起こしてそして錯覚の中で生きているという前提えこれらをないものかのようにえ振る舞ってくれるの
が論理性となりますなのであまりも論理性に頼りすぎているあるいは論理性にえ完美な感覚を感じている人というのはこの自分自身が錯覚をしているということを論理性があそれらは錯覚ではないよという風にえ
ま自分自身を安心させてくれるものこれに角に依存している状態となりますでこれはまた別のエピソードでも言いましたが私たちは常に錯覚を起こしていて世界をありのままに見ることができないそして
その錯覚が起こっている中で生きていくので私たちにとって見れば錯覚はもうもはや錯覚ではないと私たちの感じているこの錯覚というものが私たちにとっての現実なのでえ錯覚だという感覚自体も実は錯覚だ
といったようなまある種のえま逆説が含まれているわけですねなのでえ分かったつもりにさせてくれて世界が安定しているかのように見せてくれて私たちの不安を取り除いてくれてそしてえ合意に至ること
ができる人々が協力することができる私たちがこの社会や世界というものを捉えてみんなで協力してみんなでえ何か行動を起こしましょうといった社会システムを維持させるためにえこの論理性というもの
が役に立つとなのでえ仮のストーリーえそしてそれに対して多くの人が合意できて納得できればいいとなので私たちが合意できて納得できたからといってそれが世界をそのまま反映しているとは限らないと
いう意味においては私たちは常に間違った前提をベースにしてノイズを切り捨てた上で意思決定をしているという謙虚さを持つ必要がありますなので世界はまだまだ良くなるいう風に希望を持った場合には
切り捨てたノイズこれに可能性がまだまだあるととそして私たちはこのキリスとノイズが些細なものでノイズ自体はノイズなので大した量ではないだろうという風にま軽く見てますが実はノイズの方がはるか
に多くてこれは切り捨てたノイズがですねはるかに多くて私たちが捉えているものの方がはるかに少ないということを後になって気づくことがあります例えば光の概念はそうですけれども私たちは光が目から見て
認識できる波長のものだけを光だという風にえ当初捉えていたわけですけれどもそれら光の波長を見ていくと実は見えていない領域の波長のスペクトラムの方がはかに多かったと私たちが見ているのはこの光の
波長の中の本当にごく一部しか認識できていないえま目で見ることができないということ後から知って目に見えない光というものは存在しない不要だあるいはノイズだという風に切り捨てたこっちの領域の方が
はかに多かったということが後から分かったりするわけですねとなると私たちもこの世界を認識している時にノイズだから例外だからいらないよという風に切ったしかし実はノイズと呼べるような量ではなくて
そっちの方が実はえマジョリティだったと言ったことが後から分かるということもあるわけですねこれはちょっと国経ですが私たちがマイノリティを切り捨てた結果しかしそのマイノリティがどれぐらいいる
のかどれぐらいのパターンがあるのかどれぐらいの種類があるのかというのはその時は切り捨てたことによって分からないわけですそこに注意を払っていないのでえそれがどれほどのものなのかということをその
時は警視していて後になっていろんなことが不都合があるので修正を迫られた時ににその修正をする時にじゃあ具体的にその切り捨てたノイズってのはどんなものなんだろうという風に調査をしてみたら実は
そっちの方が多くてえそっちが実はマジョリティなんじゃないかと私たちがま自分たちがマジョリティでこうだと思った定義したものがあ実はマイノリティな部分だったととても偏ったところだけを見てい
てえそしてそれがまるでメインストリームだと思えかのように見ているということが起こるわけですねこれはあの別のところで言ったそのアナキズムにもそうなんですけども元々人類は国家というものがあり
ませんでした国家というものはごくごく最近にできた概念で私たちがどこかの国家に属しているということになったのも本当ここ数百年ぐらいの話ですねそれ以前は国家というようなものは全くなくしかしま
共同体はありましたしえ人々が何らかの営としてえ人々と協力し合ってえ暗黙の掟てや法というものを独自で作ってえ営んでいるということは長い歴史の中でありましたが国家といったようなものができたの国
最近ですしかし私たちはこの国家という概念や国家という仕組みが私たちの人類の歴史から考えるとむしろえマイノリティな発想でごを偏った変な仕組みえと呼べるようなものなんですけれどもしかしそれを
一度受け入れてしまってそれをメインストリームだという風に判断してしまうとまるで国家を持たない国家の外で生きている人たちは変な人たちノイズなんだという風にして無視することになりますなの
で私たちはその人たちの存在に注意をことがないので警視することになりその人たちを野蛮人だという風に受け取ることになってしまいますしかしその逆例もしその人たちから見れば国家という概念に取り憑か
れてえその国家という概念を受け入れて営んでる私たちの方が変な存在のに移るんじゃないかなというえ物見方もできるわけですねなので私たちはこの一度受け入れてしまった概念の内側にいる状態だとそれら
を疑うことがかなり難しくなりますのでそういった意味で謙虚であるということがどれほど難しいか1度受け入れた科学を本当は違うんじゃないかと疑うことがどれだけ難しいか要は1度合意したことを合意
を1回え見直してみませんか訂正しませんかということがどれほど難しいか特に自分でその合意を取り付けたあるいは合意をするのに努力したとなった場合はなおさらですねなのでこの私たちが生きてる世界
私たちが当たり前だと思って従っているルールそのルールが長らく自分自身にとって役に立つルールだと思っていた場合はなおさらそのルールが変じゃないかという風に疑うことはかなり難しくなりそしてえ
この世界を形作る仕組みが役に立っていると思う人え役に立っているという仕組みになの上で恩恵を受けている人はなおさらそのシステムを疑わないのでそのシステムを自分たちの手で修正しようと思わない
わけですねこれはあのアナーキズムのところでも言いましたがあ権力を持った人それによって恩恵を受けている人はこの仕組みそのものが変だという風に疑うことは基本的にないとなぜなら自分たちにとっ
てえこのシステムは本当に都合が良くうまくできたシステムだという風に思いがちなわけです要は美しく見えるわけですなのでその美しく見える状態を破壊してえ別のものに作り替えるというそそのような
発想そのような動機は生まれにくいわけですね私たちは美しいものがなぜ美しいと思うのかと言うとそれらが完璧に見えるからなんですねえしかしここで完璧に見えるもの私たちが完璧だと思うものは実
はわずかなノイズが含まれているものこれを人間は美しい完璧だと思うこれを考えると私たちにとってみて本当にえ全てのノイズが除去されて全くノイズがなく綺麗に作られたものは実は美しいとか正しいと
かという風に思わないわけですねこれが美しさの不思議なところで私たちは実は錯覚を起こす際のその錯覚の部分はある程度のわずかなですけれどもわずかなノイズが含まれているからこそ完璧だと
思う綺麗だと思う美しいと思うという特性があるということは完全にノイズを除去してしまったもの漂白したものは私たちは美しいと思わないわけです退屈だと思ったりえ無気質なもので何か足りないと思う
わけですねこれは私たちがあってこの言語もそうですけれども完全に欲をコントロールされて一定の店舗で喋るようなメカニズムを持った例えば人工知能で作ったま生成した言葉であればあそれらを
完璧にえピッチも合わせて欲も一定にさせた場合の言葉というのは人工的で美しいと思わけです私たちがえ人間が引いた楽器や私たちのこのような会話が不規則でありノイズがあるからこそ美しいと思うとその
ノイズがあまりにも多すぎると汚いとかあ綺麗じゃないという風に思うかもしれませんがノイズを完全に除去すれば美しいとなるわけではなくてそういった意味ではノイズが多すぎると汚い悪いと思いますが
ノイズをどんどん減らして減らして減らしてとやっていく中で美しい完璧だと思う時にはまだ若干のノイズが残っているわけですでしかしそのノイズをさらに除去するともうもはやそれを美しいという領域を
超えてしまって退屈だと興味を持たないというところに行ってしまいますとなると私たちがこの世界やストーリーあるいは論理性を求める時にもわずかなノイズが残されている状態を完璧だ美しいと思って
しまう特性があると考えると実は私たちの言う論理性の限界というのはノイズが含まれた状態での完璧なストーリーと思うものが私たちにとってえ璧だと思うものという矛盾を持っているわけですこれが私たちの
認知の限界ですね特性でもありますなのでえこの論理性が導き出すストーリーが完璧であればあるほど私たちはそれを疑わなくなりますがしかし実際には現実を正しく反映しているわけでもないというこの世界
を完璧に記述しようしようという風にトライすればするほど実は現実のノイズというものを含んでしまうというそういったま人間の認知の特性があるということを理解していれば私たちがこの世界に対して
えどのように捉えればいいのか考えればいいのかというそのスタンスがま決まってくるんじゃないかなと思いますなので私たちは常に修正する可能性訂正する可能性を残しつつそして常に修正や訂正という
ものを受け入れる前提を持ってえあくまでも私たちの認識というのは常に仮の状態であると後からいくらでも修正や変更訂正というものを受け入れるようなえ流れが必ずあるという風にえ認めてえ進んでいくその
謙虚さというものがあ私たちをより豊かにし進歩させてくれるのではないかなと思います私たちは常に分かったつもりでえ世界を捉えて前進しますがそれはあくまでも私たちが営んでいくこの世界を止めない
ためにえ仮で進んでいるだけですのでえその分かったつもりというのが後から実は分かってなかったという風に突きつけられる可能性もあるというその喧嘩さを持ちながらあこの世界をより豊かにして
いこうよりよくしていこうというえ挑戦を続けるべきだというそういったテーマとして今回私は論理性の限界というものをテーマとして取り上げましたで論理性は高い方が確かにいいですがそれは万能では
ありませんのでどこまでも論理性を高めたからと言って私たちは神のような存在万能な人間になれるわけではないむしろその逆でですねえ私たちを劣った存在にしてしまう恐れもあるということでえ論理性の
限界がありえ論理性が万能ではないしかしま論理性はそれでも高めていこうといったようなスタンスでえ日々望んでもらえればいいんじゃないかなと思いますはいえっと私の著作コル技術まだ読んでない人は
Amazonでポチって買って読んでいただければと思いますえ今日もお疲れ様でした
